過食の症状が出始めたのは14歳の頃から。以来、15年余りにわたって過食嘔吐を続けていました。

私の場合は、ただ過食するだけではありませんでした。
もうこれ以上入らない!というところまで食べ物を詰め込んだあと、まるで胃袋を裏返しにするように指を突っ込んで吐いてしまうのです。
ヤセたい、でも食べたいというジレンマを、もっとも”こざかしい”手段で解決しようと試みていました。

ところが、ほどなくして嘔吐そのものに快感を覚えてしまったのです。イライラすれば吐き、不安になれば吐きました。そして、何もすることが無くても吐くようになったのです。
いちばんひどかった頃は、仕事と、睡眠以外の時間をすべて食べ吐きに費やしていました。

出勤前にコンビニに買い出しに行って「ひと吐き」。職場ではみんなと昼食を食べたあとに急いでトイレに駆け込み、嗚咽を水の音でかき消しながら吐いたことも数々ありました。

パン屋めぐりもしました。
一つの店で大量に買い込むと怪しまれると思ったので、街中のパン屋さんをあちこち歩き回りました。店をハシゴしたことがばれないように、買ったパンは袋ごとリュックサックに詰めこんで隠して、家まで帰ったものです。
デパートの地下では惣菜を買いあさり、その場で食べたくて、売り場のトイレブースの中で平らげたこともあります。
食べ終わった後、それまで腰掛けていた洋式トイレにひざまずいて、指を突っ込んで…。さすがにこれには自分でも情けなくなり、家に帰って自己嫌悪のあまり大声で泣きました。

「もう止めよう、今日限りにしよう!」

何度そう思ったことでしょう。しかし決心はいつもあっけなく崩れるのです。
家に居ても、お米を炊いては食べ、吐くということを一日に何度も繰り返しました。自分に嫌気がさして、ついには自宅の炊飯器までも処分しました。それでも過食嘔吐は止まらなかったのです。


自助グループとの最初の出会いは、この頃(1990年代半ば)にさかのぼります。書店でダイエットの本を探していたところ、ぐうぜん摂食障害(摂食障がい)の人たちの体験談を集めた本を見つけました。
そこには、私と同じような体験を持つ人たちの、生々しい話が載っていました。
「こんな異常な行動をしているのはわたしだけではないか」…日々そう悩んでいた私は、なんとも救われた思いがしたものです。

その本には、摂食障害(摂食障がい)の自助グループの連絡先が載っていました。自助グループというものの存在も、このとき初めて知りました。
せっぱつまっていた私は、さっそく連絡をとってみました。
結局、私が通える範囲では、その団体のミーティング場はありませんでした。いくつかの連絡先を経て、たどり着いたのがAA(アルコホーリクス・アノニマス)という、聞き慣れない横文字の自助グループ…”12ステップグループ”と言われるグループのひとつでした。

アルコホーリック、と聞いて私はとっても嫌な気持ちになりました。父を思い出したからです。

私の父は酒が無ければ自分の意思表示ができない人でした。よく、酔った勢いで私の身体を通りすがりに触ったりもしました(しらふに戻った本人は覚えていないのですが)。

幼いときに、酔った父が母を相手に暴れたことがあります。恐怖のあまり、私は父に気付かれないように110番通報をしました。
しかし、警察が来たときには、父は怒って外に飛び出したあとでした。
お巡りさんは「どこの家にもあることだ」と迷惑そうに帰っていきました。…まだDVという言葉も無かった頃のことです。
父から守らなくては、助けなくては!と私が思っていた、当の母からは、「家の恥をさらすな」と怒られてしまいました。

さて、その時はとりあえずAAのミーティングには参加したものの(注1)、「自分はアル中なんかじゃない!それに、過食したからって酔っぱらうわけじゃない。私とは違う」という思いが消えず、すぐに足が遠のいていしまいました。
それっきりミーティングのことも、AAのことも忘れ去ってしまいました。過食嘔吐は発作のように連続したり、何週間かおさまったりを繰り返しながら、着実にわたしの体をむしばんでいきました。


ゲロと涙と鼻水にまみれていた頃は、過食さえ止まれば、すべての悩みごとが解決すると思っていました。
でも、現実は甘くありませんでした。

じつは、1997年から2、3年ぐらいの間、過食嘔吐をほとんどしなくても済んでいた時期がありました。
回復したわけではありません。ある所での人間関係がきっかけで、うつ状態になったのです。早い話、落ち込みのあまり、食べ吐きをする気力すらなくなってしまったのです。

自分の体が自分のものだという実感がありませんでした。
このまま地面に吸いこまれて消えてしまいたい、太陽の光がうっとうしい、夜がいつまでも続けばいいと思っていました。

過食嘔吐というストレスの発散手段(まさに吐け口!) をやめると「うつ」になる、「うつ」の症状が軽くなれば、過食の欲求が真っ先に復活してくる…

もう食べ吐きだけの問題ではない…そう感じたときに、ふと思い出したのがAAでした。
初めてミーティングに行ったときから、もう5年以上も経っていました。

 

2001年の夏 、ひさかたぶりに訪れたミーティングは、やっぱり独特な雰囲気でした。自分の名前を名乗る前に、わざわざ病名をあわせて言うやり方にも、抵抗がありました。

転機はほどなく訪れました。
お盆に行われる泊まりがけのイベントに誘われたのです。教会を借りて、ふだん別々のグループでミーティングをしているメンバーが集まってミーティングをしたりレクリエーションを楽しむのだそうです。
「いつ来ても、いつ帰ってもいいからおいで」と声をかけられて、軽い気持ちで参加することにしました。

最初は、ちょっとだけ顔を出して、すぐに帰ろうと思っていました。強制されたわけでもないのに、結局、夜が明けるまでいろんな人と話をしました。なんだか学生時代に戻ったみたいで、 すぐに打ち解けました。
ゆったりとした時間と、心の奥底まで掘り起こす作業を強いられるミーティングとのギャップが、不思議と心地良かったのです。
雑談の中にも、心に残る言葉をいくつも受け取りました。この歳になって、生き方について誰かと真剣に話ができるとは思いませんでした。それがとてもうれしかったのです。

「難しいことはよくわからないけれど、この人たちと一緒にいたら何かいいことがあるかも」と感じました。
それまで自分の病気の話を堂々とできる場所があるなんて、考えたことすらありませんでした。

一方で、アルコール依存症という病気の話も、たいへん興味深く聞きました。
お酒を飲み過ぎて手がふるえて、文字を書くにしてもとても困った思いをしたとか、幻覚や幻聴の話とか、禁断症状で意識不明に陥ったとか…今まで見たことも聞いたこともなかったことばかりでした。アルコールを含め、依存症とは進行性の病気であること、そのために、ほんとうに人が死んでしまうことも知りました。
その後、ミーティングに通い続けるうちに、出会ったことのあるメンバーの訃報を聞きました。それも一度や二度ではありませんでした。

私と同じだ、と感じたこともあります。お酒を飲んでしまうときの心境です。

「飲もうと思ったときには、もうグラスを手にしている」と話した方がいましたが、私が過食嘔吐するときの行動と全く変わらないのです。私も、気がついたら食べ物をものすごい勢いでつっこんでいて、あとはいかに吐くかという事しか考えません。そこには理由などありません。

ミーティングで学んだのは、言葉の持つ力の偉大さでした。
不安や怒り、孤独感は、ほうっておくと過食の衝動を招いてしまいます。
しかし感情を言葉にして誰かに聞いてもらうことで、 自分が何に囚われているのか気づかされるのです。

あるとき、こう言われました。

「自分の内面を見つめるということは、相手の立場でものを考えることだ。自分だったら、こんな時どうするだろうってね」

今まで、ああでもない、こうでもない、どうして自分ばかりが…と頭の中をこねくりまわしていた私は、目からウロコが落ちました。
ふさがっていた目と耳が、一気に開いたようでした。


ミーティングに通い始めて、 3ヶ月が経とうとしていた頃です。

高くそびえる銀杏の木が目にとまりました。 葉は見事に黄金色に染まって、澄みきった秋空を背景に一段と映えていました。その姿にひきつけられるように、木のそばへ歩み寄って行きました。足元はさながら黄色いじゅうたんを敷きつめたようでした。私はしばし見とれてしまいました。
降りつもる落葉は、一枚たりとも同じ色をしていませんでした。

ああ、きれいだな。

そして気づいたのです。私がうつの闇の中に居たときも、自然は淡々とその営みを続けていたことを。止まっていたのは、私の時間だけだったのです。

私は「過食がおさまれば、すべてがうまくいく」 と思っていました。
でも本当は、「食べ吐きをしなければやっていられなくなる」ような生き方こそが問題だったのです。

自分の意思さえしっかりしていれば、食欲なんてコントロールできるし、そうすべきだとずっと思っていました。
世の中にはそれができる人がいるでしょうし、そういう人の方が多いかもしれません。
でも、私にはできないのです 。「何か」のせいで、私は本能の扱い方を誤ってしまったのです。

しかし「私の力ではどうにもできない」のは食欲だけでしょうか?

私は、自分の力ではどうすることもできないものをコントロールしようとしてムキになり、やがて狂気に乗っ取られてしまうのです。
自分が変えてゆけるものなんてほんのわずかで、 私の関心や行動が常にその「わずかなもの」に対してなされることでしか、心の平安が訪れることはないのでしょう。

今でも、過食嘔吐の欲求はひんぱんに起こります(注2)。 嘔吐の快感は体にしみついているし、体型へのこだわりが完全に消えてなくなることもないでしょう。
治らないもの、変えられないものを何とかしようとするより、今日一日をよりよく生きていくことに 心をくだく方が大切だと、自分に言い聞かせています。


ところで、お酒についてはとんでもないオチがついてしまいました。

2002年の冬。AAのミーティングに通い始めて半年ぐらい経った頃です。
気心の知れた人とは一緒に食事ができるぐらいになっていた私は、その日、あるAAメンバーと一緒に夕食を一緒にとっていました。
当時の私はまだお酒の問題を認めていなかったこともあって、同席していたメンバーの了承をもらってワインを飲むことにしました。

そこでブラックアウト (いわゆる「酔っていたときのことは覚えていない」という状態)を起こしたのです。
酔いにまかせて、メンバーに対して皮肉や暴言、陰湿な言葉を吐いたらしいのです。…ほんとうに覚えていないのですから、申しわけないけれど「らしい」としか言いようがありません。けっして父親のようにはならないと思っていたのに…。

後日、そのメンバーには平身低頭に謝りました。「ほんとうに覚えていないのなら、しかたないなあ」としぶしぶ許してもらいました。

思い返してみれば、わたしにとってのお酒は、けっしてリラックスをもたらすものではありませんでした。
私にとってお酒を飲むことは、父への反抗心からでした。
父を思い出して緊張し、そして「私も父のようになるのではないか」と不安になったものです。
でも、「お酒を飲んでも酔わない自分」を確認することで、父よりも優位に立ったように感じていました。
ですから、お酒を飲みながらも、「父親のようになってはいけない。私は酔うために飲むのではない。私がお酒を飲むのは、父親とは違うことを証明するためだ」と、(今考えればよく分からない屁理屈でもって)自分で酩酊感を打ち消そうとしながら飲んでいました。他の人から聞いた話では、顔色ひとつ変えずに飲んでいたようです。

皮肉なことに私の酒の強さは父ゆずりでした。ほどなくして、より強いお酒を好んで飲むようになりました。ビールやカクテルからジンやウォッカへ、水なんかで割らずにロックやショットで飲む干すような飲み方を選び、よりたくさんの量を飲んでいきました。
「ほら見ろ。私は父みたいに、みっともない飲み方をしない。私はお酒になんかには負けないんだ」…そう思い込むことで、父親に勝ったような気分になっていたのです。

正直なところ、「自分お酒の飲み方に問題がある」などとは、AAのミーティングに通いだしてからも、とうぶんの間は認めることができませんでした。

私が社会的にも経済的にも自立することができなかった頃、父が私にしたことは、今でもすべてを許すことはできません。
でも、もしかしたら、父こそが、わたしの飲酒の問題を「もっとひどいものにしなかった、どん底にいく前に気づかせてくれた」唯一の存在だったのかもしれない…とも、今では思っています。


わたしの病気は、不安から逃れるために嘘をつき、いつしかその自覚すらなくしてしまいます。誠実さを奪い、相手をコントロールするためなら、求めている答えを聞き出すまで問いただそうとさえしてしまいます。その火種のようなものを、わたしは今でも心の根っこの方で抱えているのです。そのことを忘れてはならないと思っています。

今日も一日、不安や怒りからのとらわれから、少しの間でも離れられますように。
読んでくださって、ありがとうございました。